天使が家にやってきた


 後編

(1)

 窓から薄明かりが差し込み、雀のさえずりが聞こえてくる。ぼんやりと光に照らされた部屋の中で、オレはまんじりと天井の一点を見つめていた。
 結局オレは眠らなかった。――いや、一睡もできなかったのだ。
 目を閉じるとミカの言葉が頭の中を駆け回って、パニックを起こしそうになる。だから眠る事が躊躇われた。いっその事パニックを引き起こして、発狂しながら死んでしまえばいい――。そう思いもしたが、心のどこかにまだ信じられないと思う自分がいて、そうする事ができなかった。
 オレに最終宣告とでもいうべき言葉を伝えたミカは、今はオレの肩に頭を載せて、オレの身体を抱き枕代わりにして、すうすうと軽い寝息を立てて眠っている。こんなにあどけない可愛らしい顔をしたミカが、あの瞬間、氷でできた冷血動物のように思えた。

              *      *      *

『冗談だろ……?』
『冗談なんかじゃありません。本当です』
 ミカは真剣な顔をしたまま、表情を崩す事なく言い放った。感情を奥にしまい込んだようなその顔は、凄みすら感じられる。
『嘘だろ、なあ……。嘘だと言ってくれよ、ミカ!』
『嘘じゃありません。本当なんです』
 ミカの答えはあくまでも冷静だった。射竦めるような強い視線が、まっすぐにオレに突き刺さる。その表情からは嘘ではない事が見て取れた。
 だが、ミカとは正反対に興奮したオレはガバッと起き上がると、ミカの身体の上にのしかかるような格好になった。そしてミカの肩を強く掴むと、思いっきり上下に揺すりながら聞く。
『本当か? 本当なのか……なあ……?』
『いたっ……。こ、孝治さん、痛いです』
 指が食い込むほどに肩を掴まれたミカは、苦痛に顔を歪めた。ミカの抗議の声を無視してオレは身体を揺すり続ける。
『どうして……どうしてなんだ? まだやりたい事が沢山あるってのに、しなきゃいけない事があるのに、どうして……』
 その後は声が震えて言葉にならなかった。視界がぼんやりとしてきて、頬に熱いものを感じた後、ミカの頬の上に水滴が一滴、二滴と落ちていた。
 ……涙だ。オレは涙を流していた。
 ミカは少し悲し気な表情で、オレを見つめていた。
 いつの間にかオレはミカの身体を揺するのを止めていた。涙が止めどもなく溢れだし、ミカの顔の上に小さな水たまりを作っていく。その様子はまるでミカが泣いているように見えた。
 それを見たオレはさらに悲しみが込み上げてきて、どんどん膨らんでいくその悲しみから逃れようと、ミカの身体にしがみ付いて、そのまま折り重なるように枕に突っ伏して泣いた。大声を上げて泣き叫んだ。
『どうして……どうして……』
 あらん限りの力を込めてミカを抱きしめる。ミカは先程のように抗議の声を上げる事はなかった。その代わり、オレの頭を優しく抱きしめると、母親が赤ん坊をあやす時みたいにそっと背中を撫でてくれた。
 どのくらいそうしていただろう。いいかげん涙も出尽くして、多少気持ちが落ち着いてくると、現在の状況が理解できるようになってきた。
 ミカはオレが力一杯抱きしめていたせいで、苦しそうに呼吸していた。それに気付いたオレはゆっくりと腕の力を抜く。その行動に合わせてミカも背中に置いた手を外し、首に回していた手を解いた。そして不足していた分を補うかのように、深く呼吸をする。
 重なりあった身体を離してミカを見ると、まるでオレを宥めるかのように、優しい笑顔を浮かべていた。
 オレはゴロンと横に転がると、手のひらで涙を拭ってから、ミカに「ゴメン」と謝る。
『悪かったな。痛かっただろ?』
『ううん、大丈夫です。……でも良かった。落ち着いてくれて』
 小さく首を横に振りながら言う。そしておでこをオレの肩にくっつけるようにすると、手をオレの胸の上にそっと置いた。
『以前は天使の存在が見える人には、可能な限り情報を与えるようにしていました。でも中には、精神に異常をきたして凶悪犯罪を犯したり、道連れ自殺をするような人がいたんです。それで大丈夫そうだと判断した人以外には、情報を制限するようになったんです』
 そこまで言うと、ふうっと息を吐いてから続ける。
『……ゴメンなさい。孝治さんを苦しませてしまいました。やはり知らせるべきではなかったんですね』
 そうつぶやいた顔には、後悔の念が浮んでいた。
『いや、それはオレが頼んだんだし、ミカは悪くないよ』
 精一杯の強がりで、オレはそう言ってみせた。ミカには悲しい表情は似合わない。少女らしい可愛い笑顔の方が、ミカには良く似合う。そう思ったからだ。
『そう言ってもらえると、助かります』
 オレの意思を汲み取ったのか、ミカは笑顔で答えてくれた。
『なあ。オレはどんな状況で死ぬんだ。ミカは知ってるんだろ? 教えてくれ』
 そう言うとミカの身体が一瞬ピクッと震えた。顔には苦渋の色を浮かべ、下唇をかんで黙り込んでしまう。少し悩んだのだろう、しばらくしてからミカの声が小さく聞こえた。
『私も詳しい事はわからないんです。情報部から渡された内容では、午後四時頃に事故が原因で亡くなるとしか……』
『そうか……わかったよ、ありがとう。もう遅いから寝よう』
『はい。おやすみなさい』
 ミカはオレに寄り添ったまま、ゆっくりと目を閉じた。オレは身体の側面にミカの体温を感じながら、天井をじっと見つめていた。そして短い人生の中で体験した様々な事を、走馬灯のように思い出していった。
 ついさっきの事から徐々にさかのぼって、中学二年の頃に差し掛かった時に、横からミカの小さな寝息が聞こえてきた。
 再び目を開けて覗き込んでみると、オレの目に映るミカのその安らかな寝顔は、まさしく天使そのものだった。

              *      *      *

 朝方の太陽は移動するのが速い。
 夜中の事を思い出していると、ぼんやりと薄明るかった部屋の中に、あっという間に眩しい日の光が差し込むようになった。ロフトに付いている明かり取りの窓からも、一直線に光線が入るようになる。その光はそのうち枕許を照らすようになった。
 明るい太陽光がミカの顔を照らす。ミカの顔はキラキラと輝いて、年齢相応の可愛らしさよりも神々しいばかりの美しさの方が、際立つように感じられた。
 オレはその美しさに衝撃を受けていた。
(ミカってこんなに綺麗だったんだ……)
 ミカの顔を見つめながらどぎまぎしていると、光に反応したのか、ミカは「ん……」と声を漏らしながら身体を震わせる。そして目蓋をピクッとさせると、ゆっくりと目を開けた。
「ふぇ……。あ、お、おはようございます、孝治さん」
「ああ、おはよう」
 力ない笑顔を浮かべながら答える。わかってはいるが、これが今現在のオレの精一杯だ。
 一度決まった運命に抗う事ができないのならば、せめて普段と変わりなく精一杯楽しく過ごそう――。
 これが一晩掛けて出した結論だった。しかしまだ覚悟が足らないのか、どうしても力ないものになってしまう。
「すみません。私、孝治さんと一緒に行動しなくちゃいけないのに、寝坊してしまって」
「いいよ別に。オレもさっき起きたところだから。普段はもっと遅いから、気にしなくてもいいよ」
 起き抜けの言葉が、仕事に対する怠慢さを謝罪するものだったので、オレはミカを宥めるように答えた。だけどこの回答が嘘だって事は、いずればれてしまうだろう。目が充血して真っ赤だろうし、昼頃には欠伸を噛み殺すのに四苦八苦するだろうから。
「はい、ありがとうございます。孝治さんって、あったかいんですね」
 ミカはそう言うと、ギュッと手に力を込めてさらに身体を密着させてくる。押し付けられた部分から、ミカの体温と柔らかさが伝わってきた。
 ドキッドキッと心臓の鼓動が徐々に激しくなっていく。さらに生理現象によって隆起し始めたオレの分身が、何を勘違いしたのかその勢いを加速していった。
(だあぁーっ! 何を考えてるんだオレは! これじゃミカに勘付かれちまう)
 身体を離してもらうように頼もうとミカの顔を見ると、ミカは再び目を閉じて眠りに入ろうとしているようだった。
 このまま眠ってしまうのなら、すぐに気付かれずに脱出できるだろう。それまでならこのままでもいいか、なんて邪な考えが浮んだ時、急にウトウトしていたミカの目がパチッと見開かれた。
「いけない、ちゃんとしなくちゃ!」
 叫ぶように言うとオレから離れ、布団から抜け出して立ち上がった。
 そして着替えようとしてスウェットの裾に手を掛けると、勢い良く上に引き上げる。裾はスベスベのお腹を通り越し、ちょうど胸の頂上近くまで上がっていた。
「うわっ! ちょっと待て、ミカ!」
 オレは慌ててミカに背中を向けると、布団を頭まですっぽりと被った。
「あ、孝治さんの事忘れてました。ゴメンなさい」
 明るい声で楽しそうに謝る。
 オレは真っ暗な布団の中で、今見たものを忘れようと努力していた。しかし一旦網膜に焼き付いたものは、なかなか消えようとはしてくれない。忘れようと思えば思うほど、脳裏にくっきりと浮んでくる。
 オレの頭の中は、ミカの可愛らしい下乳の丸みでいっぱいになっていた。それに呼応して、オレの分身が限界まではち切れんばかりに膨らんでいる。
(くぅーっ! オレってどうしようもないヤツだな……)
 シュルシュルという衣擦れの音が聞こえた後、布団の上からオレの肩を叩きながらミカがオレを呼んだ。
「孝治さん、いいですよ。終わりました」
 がばっと布団を捲って確認してみると、ちゃんと濃紺色のメイド服みたいなコスチュームに着替え終わっていた。元の姿に戻ったのだろう、その背中にはしっかり羽根も生えている。
 オレはホッとひと息ついた後、急いで布団から抜け出すと階段を降りて、一目散にトイレに駆け込んだ。分身を鎮めるためだ。
 違う要素が加わってしまったが、要は生理現象なんだから、出すものさえ出してしまえばスッキリするんだ。そう思って小便を出そうとした。
 だがいつもより上を向いている分身を、ユニット式の便器に向かってコントロールするのは難しく、恥ずかしながら最初の方はこぼしてしまった。さらに上から押さえ付けているために、いつもよりも出が悪く、終わるまで時間が掛かってしまった。
 ようやく全て出し終わり、床の後始末をすると、分身はいつもの姿に戻っていた。
 ついでだから洗面台で身支度を整えて、さっぱりしたところで外に出る。ドアを開けると表にはミカが立っていた。
「どうした?」
「おトイレ、お借りしますね。いくら天使とはいえ、食べた後は、出すものを出さなきゃいけないので」
 そう言ってオレと入れ違いに中に入ると、パタンと静かにドアを閉めた。
 どうやら人間の姿の時に摂取したものは、人間と同じように排泄しなければならないらしい。
 食べなくても生きていけたり、かと思えば食べた後は排泄しなければならなかったり。便利なのか、不便なのか……。天使って結構中途半端なんだな、そう思った。


 結局今日、オレは大学には行かなかった。留年が決まった以上、授業に出ても仕方ないし、屋根の修理を見届けなければならなかったからだ。それに……。
 管理人さんは「アタシが見てるから行ってきな」と言ってくれたが、とてもそんな気にはなれなかったので、やんわりと断わった。
 だってそうだろう。大学に行ったところで、留年が決まったオレがする事といったら、友人達と話をする事ぐらいだから。
 これ以上思い出を増やしたり、果たす事のできない約束をするのは避けたかった。もうすぐ死んでしまう人間としては――。
 一晩悩んで覚悟を決めたはずなのに、現実はこんなものだ。死が目前に迫った事を知って、いつも死の影に怯えている。今なら病気で余命を宣告された人の気持ちが、痛いほど良くわかる。
 恐くて、苦しくて、悲しくて、切なくて……。この世のありとあらゆるマイナスイメージが、全身を引きちぎろうと一斉に襲い掛かって来るのだ。これに耐えるのは、並み大抵の事じゃない。
 ホスピスで安らかな顔をして死んでいく人達を尊敬できる――。そう思うと同時に、どうしたら穏やかに過ごす事ができるのか、ぜひ聞いてみたいと思った。
 朝早めの時間に到着した大工さんの仕事は、さすがプロといった感じで、綺麗で素早かった。
 屋根の傷んだ部分をブロック単位で取り替えると、昼にはあっという間に屋根の穴が塞がった。調査した時に、ちゃんと最小限で済む寸法を割り出していたかららしい。
 昼休憩の時にお茶を出したりしながら少し話をすると、そういう技術があるって教えてくれた。エンジニア志望だったオレは、そういう話をするのが好きだった。そういう時は、色々と厄介な問題を忘れる事ができたのだ。
 大工さんの迅速な仕事のおかげで夕方には瓦が葺き終わり、外観はぱっと見たところ元通りになっている。天井の修理は明日行なうと言い残して、大工さんは帰っていった。


「やっと、ひと息つけますね」
 苦笑いを浮かべながらミカがそう言った。
 今はちょうど夕食が終わった後、お茶を飲みながらくつろいでいるところだ。
 デザートのプリンがない事をミカは残念がっていたが、渋々納得するとお茶を飲んでいた。しかしお茶を飲む事自体が初めてだったので、それはそれで喜んでくれた。
「孝治さんは、この後どうするんですか?」
 お茶を一口飲みながらミカが聞いてきた。目の前で天使が、寿司屋にあるようなごつい湯飲みを小さな手で抱えているというのは、とてもコミカルに思えてならない。
「いや、別に。お風呂に入って寝るだけかな」
 思わずクスッと笑いを漏らしながら答えると、ミカも笑顔を浮かべる。
「じゃあ、今日は早めに寝ましょうよ。孝治さん、昨日寝てないんでしょ?」
「え、知ってたの?」
 驚いてミカの顔を見ると、相変わらず笑顔を浮かべていたが、それは得意げなものに変わっていた。
「そのくらいわかりますよぉ。目は充血してるし、昼過ぎから何度も欠伸をするし。『気付くな!』っていう方が無理ですよ」
 そうか、とっくにばれていたのか。
「わかったよ。じゃあ風呂の準備をするか」
 そう言って立ち上がって風呂場に行こうとすると、制止するようにミカが声を掛けた。
「今日は私も入ってみたいんですけど、いいですよね?」
「ま……まさか、一緒にとか言うんじゃないだろうな?」
 慌てて尋ねると、ミカは大きく手を振ってみせる。
「違いますよぉ。当然別々です、別々!」
 ミカの答えに一安心したオレは、改めて風呂場に向かった。
 バスタブにお湯を張りながら、予備のバスタオルを用意してミカに手渡す。シャンプーやボディーソープ、カランなど、細々とした物の使い方をレクチャーすると、扉の向こうにミカを押し込んだ。
 しばらくしてシャワーの水音や、聞いた事のない鼻歌らしきものが聞こえてきた。それで問題なしと判断したオレは、湯飲みを片付け、自分の着替えなどを用意する。
 たっぷりと時間を掛けて出てきたミカは、バスタオルを身体に巻き付けただけの格好だった。お茶碗を伏せたような、小振りで可愛い胸が強調される感じがして、オレは大いに焦った。
「な、なんちゅう格好してるんだよ! ちゃんと着替えて出てこいって言っただろ!」
「いいじゃないですか、熱くて我慢できなかったんですよ。天界では沐浴だけだから知らなかったけど、お湯のお風呂って気持ちいいんですね。ついつい長くなっちゃいました」
 ふうっと息を吐きながら座ると、パタパタと両手で顔を扇ぐようにする。
 熱さのせいで赤みがさしたミカの白い肌は、何だか色っぽく感じられた。照れのためかこっちの顔まで熱くなってきそうだ。
「いいか、オレが出て来るまでに着替えとくんだぞ」
 照れ隠しでちょっと強めの口調で言うと、ミカは素直に「はあい」と返事をする。
 それを聞いてからオレは風呂場に入った。
 短めの時間で風呂場から出て来ると、ミカはオレが渡したスウェットを着ていた。言い付けはきちんと守ったようだ。しかし黄金色の髪の毛は濡れたままで、ペタッと一つに纏まっている。
「おい、髪の毛が濡れたままじゃないか。風邪ひくぞ」
「だって、乾かし方がわからなかったんです」
 ぶうっと拗ねたように頬を膨らませながら答える。
「しょうがないな。オレがやってやるよ」
 ドライヤーを手に取ってミカの後ろに回り込むと、髪の毛を根元から立ち上げるようにして乾かしていく。余計な水分が消えていくと、指にまとわり付くようだった髪の毛はサラサラになっていった。
「よし、終わったぞ」
 ミカからドライヤーを外して言うと、後ろ向きだったミカはくるっとこちらに向き直り、ペコリと頭を下げた。乾いたばかりの髪の毛が、サラサラと揺れる。
「ありがとうございました。今度は私がします」
 そう言ってオレからドライヤーを取り上げると、頭に温風を当て始める。そうしてぎこちない手付きながら、最後までミカに乾かしてもらった。
 就寝前の部屋の確認をして電気を消すと、ロフトへと上がる。
 そして一緒の布団に入ると、ミカは昨日と同じようにオレを抱き枕のようにする。ミカ独特のホットミルクのような香りとシャンプーの香りが入り交じった、甘くていい香りがした。
「ゴメンなさい。私こうしてると、何だか落ち着くんです」
「いいよ。オレも嫌じゃないし」
 そのまましばらく沈黙の時が流れる。その間、オレはミカの体温を身体全体で感じていた。
「孝治さん起きてます?」
 目を閉じたまま、突然ミカが小さな声で聞いてくる。
「ん? ああ……」
 まだ眠っていなかったオレは、同じように小さな声で返した。
「私、初仕事が孝治さんで、ホントに良かったです」
「え?」
「孝治さん、私に心配掛けないように、わざと嘘をついたんですよね。そんなふうに優しくされて、嬉しかったです。できれば回収課じゃなくて、擁護課の天使として、孝治さんと出会いたかった……」
 それだけ言うとミカの身体から力が抜け落ちて、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「オレだって、そう思うよ」
 眠ってしまったミカには聞き取れない事はわかっていたが、ありったけの思いを込めてそう答えていた。
 死に逝く者とその魂を回収する者。そんな関係でさえなければ、どんなに楽しい生活が送れた事だろう。そう思ってミカと一緒に過ごす別の自分を思い描いてみる。そうすると胸の奥から、ほんのりと暖かな気持ちが沸き上がってくるのを感じた。
 そうか。天使というのは、死を目前にした者が穏やかに過ごせるように、神様から送られたプレゼントなのかもしれない――。
 そう考えていると、さすがに徹夜したのが響いているのか、容赦なく意識が沈もうとしていく。
 目を閉じて大きく息をはくと、隣でミカが寝返りをうったのを感じた。
 時間はもうすぐ十二時。日付が変わろうとしている。
 徐々に意識がブラックアウトしていき、感覚が水道の栓を止めるみたいに、段々と先細りしていく。そんな中で、オレは時計の針が動く音を聞いた。
 ――その日まで、あと五日になった。


(2)

 翌日、午後四時を回った頃に、涼子さんがやってきた。
 昨晩、やはり精神的負担が大きいのか、あまり深い睡眠が取れなかったオレは、少々重い頭を振りながら玄関で出迎えた。
「こんにちは。元気だった?」
 目の前で小さく手を振って、屈託のない笑顔をオレに向ける。その何気ない仕種にオレの心拍数は跳ね上がった。
「まあ、なんとか」
 気持ちが顔に出ないように、精一杯平静を装って答える。
 涼子さんが心配してるのは、オレの留年が決まって気落ちしてるんじゃないかって事であって、オレがもうすぐいなくなる事じゃないからだ。
 そんな彼女に、オレの密かな思いを伝えたところで、いったい何になるというのだろう。そんなものは彼女にとっては余計なものだし、オレも残していきたくはなかった。
「あれ、先輩は?」
 いつも何かと首を突っ込んでくる村田先輩がいないので、不思議に思って聞いてみた。
「村田さん? 彼ならサークルの代表者連中に捕まってるらしいわ。一昨日わたしと一緒に歩いているのを目撃されたかららしいけど、それってどういう意味なのかな」
 学部内に涼子さんの非公認ファンクラブがあって、不可侵条約なんてものが存在するくらいだから、たぶん吊るし上げを喰らっているのだろう。もちろん涼子さんは、そんなものの存在を知らない。
「それは……涼子さんが説明すれば、すぐに解放されると思うけど」
「わたしが……どうして? 別に変な事があった訳じゃないし、そんなのいちいち説明するなんておかしくない?」
 幼女みたいに「アハハ」と声を上げて笑いながら言った。
 器がでかいというか、細かい事は気にしないというか……。とにかく、涼子さんはそんな人なんだ。
「それに約束の時間に遅れそうだったから、急いでたの。村田さんには関係ないし、捜すなんて考えてなかったのよ」
「約束?」
「やだ、忘れたの? 今日リプレースするって言ってたじゃない」
 ちょっと拗ねたように、可愛らしく頬を膨らませながら言う。まるで思春期に入ったばかりの少女のように、時々刻々と表情が変わる。こういうところが人気の原因なんだ。
 しかし、まずいな。今日、代わりのマシンを搬入すると言ってたんだっけ。あれから色々あったから、すっかり忘れてしまっていた。でも、新しいマシンが来ても意味ないんだよな。断わりの電話を入れとけば良かったか。
「ゴメン……」
 連絡しなかった事も含めて、オレは謝った。
「もう、しょうがないなぁ。――という訳で、お邪魔してもいいかしら?」
「ど、どうぞ」
 慌てて部屋の中へ招き入れると、あのルカという天使に続いて、三人の男が箱を抱えて入って来た。会社の営業担当の人達らしい。
「ふうん、綺麗に直ったんだね。色がちょっと違うのなんて、可愛くていいじゃない」
 修理された天井を見て、涼子さんはそんな感想を漏らした。新しくなった部分は色褪せしてないから、逆に幾何学模様みたいになって、オシャレな感じがするのだ。
「で、どこに置けばいいのかな? 専用のデスクも一緒に持って来たから、さっさと組んでセッティングしちゃおうよ」
「あ、ありがとう。それじゃ、そこの壁にくっつけるようにして……」
 オレが以前机があった場所を指定すると、涼子さんは男達にテキパキと指示を与えた。男達は入れ代わり立ち代わり部屋を出入りすると、いくつもの箱を中に運び入れる。
 その中の一つに、オレの目は釘付けになった。
「え、SEW―9200? 最上級モデルじゃないですか! オレのは6000ですよ」
 処理能力が一桁違うという、マルチプロセッサの最新モデルだ。学内の研究室でもお目にかかった事がないものを目のあたりにして、オレは驚きを隠せなかった。
「いいじゃない。珍しいものを譲ってもらえるんだから、ほんのお礼代わりよ」
 涼子さんはそう言うと、ニコッと笑顔を見せた。珍しいも何も、あのルカって娘がいるんだから、涼子さんにもあり得る事なんだけどな。
 でもミカの話じゃ、ルカは成績優秀らしいから、たぶんそういう事はないのだろう。
 その二人は邪魔になっちゃいけないと思ったのか、今はロフトに上がってこちらを見ている。
「でも、悪いですよ」
「気にしないで。それでも負担に感じるんだったら、卒業してうちに入って返してくれればいいから。柴田君なら大歓迎だよ」
 その言葉にオレの頬が一瞬引き攣った。今のオレには未来の約束はできない。その言葉はオレにとって、非常に重いものだった。
 涼子さんに気付かれていないか、慎重に表情をうかがうと、彼女はうっすらと顔を紅潮させ、笑顔のままオレの回答を待っていた。
「……それじゃ、ありがたく受け取らせていただきます」
 結局オレはそう答えた。約束ごとはなるべく避けて、なおかつ涼子さんが満足するような模範回答だ。それ以外にどんな答えがあるだろう。
「OK。じゃあ、柴田君も手伝ってね」
 それで納得したのか、涼子さんは了解した。その言葉を合図に、一斉に箱が開けられる。
 専用のワーキングデスクを組み立てると、続けて本体とディスクアレイを納めるラック、小物を収納するワゴンと、次々に組み立てていく。組み上がったところで今度は、中に納める物をセットしていく。
 ワークステーション本体、大容量のディスクアレイ、バックアップ用カートリッジドライブ、22インチの液晶ディスプレイ、レーザープリンタ、高速ルータ、ネットワークモデム……。どれもこれも沢田通信機の最新型の物ばかりだ。何だか引け目を感じてしまう。
 それらをあっという間に接続すると、三人の男の内の一人が本体の電源を入れて、システム全体を立ち上げる。どうやらこの人が、担当のサービスエンジニアらしい。
 その間に、残りの二人は散らばったゴミを外に運び出すと、続けて成れの果てとなった機材を持ち出していく。
 そして基本的なセットアップと動作確認を完了すると、涼子さんに一礼して帰っていった。
「あれ、一緒に帰らないの?」
「うん。柴田君にちょっと話があってね、先に帰ってもらった」
 そう言った涼子さんの表情は、不安の色がありありと浮んでいた。涼子さんがこんな顔を見せるなんて、初めての事だ。いったいどうしたんだろう。
「そうですか。じゃあ、とりあえず座りましょうか?」
 クッションを準備してテーブルの前に置く。涼子さんはその場所に吸い寄せられるように座った。
「今、お茶入れますから」
「あ、いいわよ。話が終われば、すぐにお暇しますから。柴田君ここに座って」
 台所に向かおうとしたオレを制止する。オレは言われた通り、涼子さんの目の前に座った。しかし涼子さんは、それきり話を切り出そうとはしない。
「で、話って何ですか?」
 思い切ってオレの方から切っ掛けを振ってみる。
「う、うん。今ね、学部内で柴田君の事が噂になってるの」
「え? お、オレの事が?」
 そいつは驚いた。オレっていつの間に有名人になったんだ? でも、たぶん留年の事なんだろうな。それ以外にネタになりそうな事はないし。
「柴田君って遅れたって何があったって、いつも必ず学校に来るじゃない。それが留年が決まってからぱたっと来なくなっちゃったから、みんな『もしかしたら大学辞めるつもりじゃないか』って……」
「そんな事が……」
 噂が噂の域を出て、事実として一人歩きしているらしい。ひとの行動を勝手に想像で決めないで欲しい……って、涼子さんに言ってもしょうがないよな。
「柴田君は実力も実績もあるから、今辞めたって引く手数多だろうし、一部の人は『大手メーカーにスカウトされたんじゃないか』って言い出す始末だし……。ねえ、そんな事ないよね?」
 いつの間にか涼子さんは、哀願するような悲し気な表情になっていた。
「え? う、うん。そんなつもりはないけど……」
 自主退学するつもりはないが、学籍抹消されるだろう。思わずそんな事を言いそうになって、言葉を濁してしまった。しかし涼子さんはそれを否定だと受け止めて、みるみる安堵の表情に変わっていく。
「良かった……ほっとした。それじゃこの保険はまだ有効なんだ」
 最後はつぶやくように言ったが、それでもオレの耳には届いていた。
「保険って?」
「ううん、何でもないの。柴田君の本当の気持ちが知りたかっただけ。話はそれだけだから。――じゃあわたし、帰るわね」
 ちょっと慌てて言うと、すっと立ち上がり玄関に向かって歩き出す。ロフトでくつろいでいたルカが、慌てて階段を下りて後を追った。
「駅まで送りますよ」
 オレがそう言って立ち上がると、今度はミカが慌てて下りてきた。
「大丈夫よ。心配しなくても一人で帰れるから。玄関まででいいわ」
 オレの申し出をきっぱりと断わりながら、玄関で靴を履く。そして履き終わるとドアを開けてそのまま出て行くのかと思ったら、一旦表に出て、ドアに手を掛けたままくるりとこちらに振り返る。
「今は気分が乗らなくて、大学に出て来たくないのかもしれないけれど。わたし、柴田君が出て来るのを待ってるから。じゃあ……」
 そう言い残してドアから手を離すと、その手を小さく振りながら小声で「またね」と言った。パタンと軽く音を立ててドアが閉まると、コツコツという涼子さんの足音が聞こえてきて、それはやがて遠離っていった。
 ――はあっ……。
 涼子さんの残した最後の言葉が重すぎて、オレはため息をつきながら部屋に戻った。気持ちは嬉しいんだけど、たぶん未練がつのるだけだから、もう顔を合わせない方がいいんだろうな。
 重い足取りで部屋に入ると、暗い表情をしているであろうオレを、ミカは笑顔で出迎えた。
「涼子さんって、優しい人なんですね」
 そうだな。オレを悩ませるくらいに優しすぎるんだよ、きっと。
 ドスンと音を立てるくらい乱暴に、クッションの上に腰を降ろす。
「告白しちゃえばよかったのに。好きなんでしょ? 涼子さんの事」
「ど、ど、ど……どうしてそれをッ!」
 ミカの突然の指摘に、オレは思いっきり慌てふためいた。
「わかりますよぉ、そのくらい。涼子さんと話す時だけ、妙におどおどしてますもん。思わず『カワイイ』って言いそうになりましたよ」
 クスクス笑いながら観察結果を報告する。
「――わ、悪かったな!」
 顔中真っ赤になりながら、強がって反発してみせる。図星なだけにそれ以上言い返しようがない。
「本当に言っちゃえば良かったのに……。涼子さんだって待ってるはずですよ」
「どうしてそんな事がわかるんだよ?」
 ミカの口から発せられた予想外の言葉に、オレは思わず聞き返していた。
「まさか、ルカって娘から聞き出したとか」
「違いますよ。プライバシーの問題がありますから、そういう事はしちゃいけない決まりなんです。あれですよ、あれ!」
 否定しながらミカの指差した方向には……新品のワークステーションが。
「あ、あれがどうかしたのか」
「考えてもみて下さいよ。孝治さんが負い目に感じるくらいの物を、わざわざ持って来るのって変じゃありません? 普通は同じくらいのものですよね。確かに隕石に当ったって信じてるからかも知れませんけど、これじゃ倍返し以上ですよ」
 そうかもしれない。でも不足分は出世払いでって、涼子さんも言ってた訳だし……。
 考えながらぶつぶつ言っていると、ミカがオレの言葉をひったくって続ける。
「それだってそうです。元は『孝治さんが退学するんじゃないか』ってところから、始まってるんですよ。それを思い止まらせるために、高価な贈り物をして負い目を感じさせる。そして、しっかりと言質を取っていく。――ずっと孝治さんと一緒にいたいからですよ。卒業しても疎遠にならないように、自分の近くにいて欲しい。そう思っているはずです」
 そんな馬鹿な……涼子さんが、オレを……。
 言いかけて言葉にするのを止める。考えてみると、確かにそうだ。出世払いだったら返してさえもらえれば、どこに就職したっていい訳だし。それに、オレに確認した時の涼子さんの表情――。まるで別れ話を切り出される直前みたいな顔をしていた。
 ――そうか。だからあれを「保険」って言ってたんだ……。いつまでもオレを視界の中にとどめておきたくて、密かに賭けに出たんだ。
 だけど……。
「例えそうだとしても、どうしてそんなまどろっこしい事しなくちゃいけないんだ? わざわざそんな事しなくても、ひとこと言えば済むのに」
 筋違いなのはわかっているが、それでもオレはミカに尋ねてみた。天使だからなのか、女の子だからなのか。理由はわからないが、ミカには涼子さんの事が良くわかるみたいだから。
「孝治さんらしくないですね。自分ができない事を、相手に望むんですか?」
「くっ……」
 そう言われちゃ返す言葉がなかった。確かにオレは告白できなかった。今までするチャンスはあったにも拘らず、だ。なのにそれを涼子さんに求めるというのは、お門違いというものだろう。
「理由は簡単、女の子だからです。女の子って、いつだって好きな人から告白されるのを待ってるんですよ。それに涼子さんってお嬢様だから、ちやほやされるのは慣れていても、自分から積極的にっていうのはできないんじゃないかな。で、どうしていいかわからないから、これを考えついた……と。こんなところでしょうか?」
 ミカは満面に笑みを浮かべながら、自説を説き終えた。
 確かにそれで話の筋は通っている。ミカって天使よりも、探偵か調査員でもした方がいいんじゃないか。
「でも……だからって、オレが告白する訳にはいかないよ」
「あれ? どうしてですか?」
 理由がわからないって感じで、不思議そうにミカが尋ねる。
「だって、オレはもうすぐこの世からいなくなるんだぞ! もしミカの言った通りに涼子さんが考えてたとしたら、オレが告白してすぐにいなくなったら、彼女の心に傷を負わすだけじゃないか。そんな事はオレにはできないよ!」
 ちょっと感情的になって、テーブルを「バン!」と叩きながら叫ぶように言うと、ミカは一瞬驚きの表情を浮かべた後、すぐに寂しそうな顔をした。
「そう……それが孝治さんの考え方ですか。そう決めたのなら、強制はしませんけど。ただ、忘れないで下さい。涼子さんは孝治さんの身に何が起こるのか知らない事を。孝治さんとは、いつでも大学で会えると信じてるんですから。それに普段の孝治さんなら、涼子さんの気持ちがわかった時点で、どう行動したでしょうか? 言いたいのはそれだけです」
 話を切り上げて立ち上がると、玄関の方に向かって歩き出す。
「おい、どこ行くんだよ?」
 あまりに唐突な行動だったので、オレは思わず尋ねていた。
「トイレです!」
 少し怒ったように返事を返した後に、パタンとドアの閉まる音がした。
 今日は来客続きでずっと天使の姿のままだったから、トイレに入る必要はないはずだ。これはたぶん、一人で考える時間を作ってくれたんだろう。
 ミカの厚意をありがたく受け止めると同時に、容易に正答が出せない難問を前に、オレは頭を抱えていた。


 夕食が終わり、風呂から上がった後も、結局答えは出せないままだった。
 頭の中で何度も同じシーソーゲームを繰り返す。
 出された命題はたった一つ。伝えるべきか、そうでないか。
 単純だが、難しい問題だ……。
 どちらにしろ、オレがいなくなって、涼子さんは悲しんでくれるだろうか……。たぶん、涙を流してくれるだろうが、その後の事までは、オレには想像がつかない。
 まあ、いつも傍にルカがいる事だし、彼女が涼子さんを支えてくれるだろう――。
 そう考えていたら、ふと疑問が沸き起こった。
 涼子さんは天使が見えないはず。天使から見ると、普通の人と変わらないはずだ。なのにどうして、四六時中護ってなきゃいけないんだろう。
「あのさ、ミカ。聞きたい事があるんだけど」
「はい。何でしょう?」
 オレは思った事を素直にミカに聞いてみた。ミカはその問い掛けに対して、ばつが悪そうに頭を掻きながら答える。
「えっと……、それはですね、お恥ずかしい話ですが……。実は、私達天使は生殖能力がないので、子供を作る事ができないんです」
「あれ? 天使って神様の子供じゃなかったの?」
 世の中にまかり通っている、創造された一般論をぶつけてみる。
「やだ、神様の子供は神様ですよ。私達は神様に仕える存在なんです。確かに私達種族の最初のグループは、神様の手で作られました。でも、神様も一時的なものと考えていたのか、その時から生殖能力がなかったんです」
「ふむ……」
 神の子は神。言われてみれば至極真っ当な事だ。
「最初はそれでも良かったんです。神様がいなくなった天使の分を、補充してくれましたから。しかし、地上の生物が多様化していくにつれ、神様の手がこちらに回らなくなってきたんです。そこで私達は人の手を借りる事にしました」
「どういう事?」
「大人になっても子供のような純粋な心を持っていて、天使の精神波長に近い男女を天界にお連れして、天使を産んでもらうんです」
 という事は、涼子さんもいずれ天界に行く訳で……。
「……あ、もちろん寿命を迎えてからですよ。魂には年齢というものが存在しませんから、いくつだっていいんです。それまで、その人の魂が穢れたりする事のないように護るのが、擁護課の天使の仕事なんです」
 す、凄い。涼子さんはファンの間で「天使みたいだ」って言われてたけど、本当に天使の母親になるんだ……。そして、未来の母親を護るために遣わされた、エリート天使のルカ。
 凄い……凄すぎる。こんな話、言っても誰も信じちゃくれないだろう。
 やはりみんなが好きになる人は、それだけの理由があったんだ――。
「凄い話だな。それで涼子さんを護っている訳なんだ……。でも、さっき精神波長が近い人って言ってたよな。それだと、涼子さんも天使が見えなきゃおかしくないか?」
「そう! そこが不思議なんですよ!」
 ずいっと身を乗り出しながら、大声で相槌をうつ。
「擁護課の天使がついた人は、普通姿を見る事ができるはずなんですけどねぇ。涼子さんの方に問題はないはずですから、たぶん何らかの理由で、ルカちゃんとの相性が悪いんじゃないですか。そうじゃなきゃ、こんな事あり得ないはずですから」
 なるほど。エリートと呼ばれるルカにも何らかの問題がある訳だ。
 だったら、いずれ問題が解消されて、涼子さんにもルカの姿が見えるようになればいいのに。そうすれば今のミカとの生活みたいに、楽しい事が涼子さんにも増えるはずだから。
「でも、何かの切っ掛けで波長パターンの認識ができるようになれば、すぐに見えるようになりますよ。――さて、もう遅いですから、そろそろ寝ましょうか?」
 オレの思考を中断させるように、ミカが割り込んでくる。時計を見ると、十一時を回っていた。
「ん? もうそんな時間か。じゃあ、寝るか」
 そう言って立ち上がると、就寝前の準備を始める。
 いつものように準備をし終わると、ロフトに上がり、二人一緒に布団に潜り込む。三度目ともなると、大してドキドキしないで済むようになった。
 ミカはミカでこの生活パターンに慣れてしまったのか、布団に入ってすぐにすうすうと寝息を立て始める。
 オレはしばらく考え事をしていたが、ミカが熟睡しているのを確認すると、意を決して布団から抜け出した。とは言っても、ミカを起こさないように慎重に、ゆっくりとだったが。
 ロフトを下りて机に向かうと、ワークステーションを立ち上げる。コイツに最初で最後の仕事をさせるためだ。
 結局オレは考えに考え抜いて、涼子さんに気持ちを伝える事にした。だが、直接伝えるのはどうしても気が引ける。だからメールで送る事に決めた。それもオレがいなくなる、ちょうどその時間に届くように。
 そうやって涼子さんの本当の気持ちを確認してから、旅立ってもいいかな、とオレは思っていた。ミカが「駄々をこねて天界に行かない人がいる」と言っていたから、ほんの少しの間なら、ここに残る事は可能だろう。
 いきなりの事で涼子さんが驚かないように、オレは今までの経緯を全て書き記す事にした。事故に遭う事、天界の事、ミカの事、さらにルカの事や涼子さん自身の事も。これが切っ掛けで、ルカの事が見えるようになればいいなと思いながら、置き土産として書いておいた。
 そして最後にありったけの思いを込めて、短く一行書き加える。「あなたが好きでした」と……。
 さらには涼子さんの携帯に、「PCのメールを見るように」という内容のショートメールを送るようにする。こうしておけば見逃す事はないだろう。
 加えてそれぞれのメールが、当日の午後四時に送信されるようにスクリプトを組むと、ワークステーションをスリープモードに切り替えた。
 ふうっと息をはいて立ち上がる。これで何も問題がなければ、自動的にメールが送られるはずだ。オレの気持ちは悩みでもやもやしたものから、春の青空みたいに清々しいものになっていた。
 日付はとっくに変わっていて、その日まであと四日になっている。
 ――もうオレは、後ろ向きになる事はないだろう。


(3)

 それからは残された日を普段通りに過ごした。
 慢性的な睡眠不足は続いていたが、気分が変に高揚しているからか、それでも疲れを感じる事はなく、いつも通りの生活パターンを送れた。
 大学に行って、出る必要のなくなった授業にも顔を出し、カフェテリアで約束ごとは避けながらも、友人達と他愛もない話に花を咲かせたり。
 シス研の方にも顔を出して、留年の事をからかわれたりもしたが、概ね楽しい時間を過ごす事ができた。
 あの日以来、涼子さんとは部室で顔をあわせてはいたのだが、何故か妙に意識してしまって、ろくに話もできなかった。それだけが多少心残りではあったが、この世に居残って涼子さんの行動を確認する事はできるだろうし、とりあえず我慢する事にした。
 夜は夜で、昼間はオレと一緒に大学にいたため、大っぴらに行動できなかったミカと、戯れあったり一緒に食事をしたりして、笑顔が溢れる日々を過ごした。
 ――こうして、とうとうその日はやってきた。

              *      *      *

 いよいよ、オレがこの世からいなくなる当日。
 今日一日は何もせずに、部屋でボーッと過ごす事にした。念のため、誰にも邪魔されないように電話のコンセントを抜いたし、携帯の電源も切っておいたから、不粋な連絡が割り込む事はないだろう。
 学生専用のアパートは日中は人が出払ってるから、周りからの騒音もなく、静かで、物思いに耽るには最適の環境だ。
 そんな中、オレはミカと二人っきりで部屋にこもっていた。
 朝と昼の食事の時以外はロフトに上がり、壁に寄り掛かって足を投げ出すように座ったまま、時の過ぎゆくままに身を任せる。その隣には、肩と肩をくっつけるようにして、ミカが座っている。
 オレが今まで出会った人達の顔を、感慨深く一人一人思い出していると、それを察してか何も言わずに寄り添っていてくれた。
「ありがとうな……ミカ」
 正面を向いたままお礼を言うと、隣から小さく笑い声が漏れる。
「どうしたんですか? 唐突に」
「いや、正直死ぬ事がまだちょっと恐いけど……でも、こんなに穏やかでいられるのは、ミカのおかげだと思って」
「そんな! 私は別に何もしてませんよ。逆に食事をご馳走になったり、地上の事を教えてもらったりして、こっちがお礼を言いたいくらいです」
 オレの正面に向き直ってそう言うと、ペコリと頭を下げた。ミカは笑顔のまま頭を上げると、何か思い付いたらしく、突然身を乗り出して尋ねてくる。
「そうだ! 私でできる事なら、何かお礼をしたいんですけど。孝治さん、何かありますか?」
「えっ? そうだなぁ……」
 ミカの急な提案に戸惑いながらも、オレは考えを巡らせた。ミカにできる事、ミカだからできる事……。
 いろんな考えが浮んでは消えていったが、最後にひとつ残った要望に、オレの顔がみるみる赤くなっていく。まさかこんな事、恥ずかしくて頼める訳ないし――。
「何です? 顔なんか赤くしちゃって。何でもいいから言ってみて下さいよ」
 その様子に気付いたミカは、問い詰めるように聞いてくる。
「ほら、ほらぁ」
 オレの太ももの辺りを指で突つくようにして、しつこく返事を迫る。
「いや、でも……恥ずかしいし」
「いいから! 言って下さい」
 少し怒ったように、可愛らしく頬を膨らませながら言う。それに気押された訳ではないが、オレはおずおずと口を開いた。
「なんだ、ほら。その……ミカの事を抱きしめさせて欲しいなぁ、なんて……。オレは今まで女の子とつきあった事がないから、そういう経験がなくて……」
 あの晩の事は、ただがむしゃらにしがみついたって感じだから、感覚として覚えているはずもなく。そんなのじゃなくて、愛情を込めて優しく抱きしめたかったのだ。
「何かと思ったら、そんな事ですか。いいですよ」
 満面に笑みを浮かべながら了解したミカは、膝立ちの姿勢になるとオレの両足を跨ぐようにして、太ももの上に座る。そして両方の腕を前に突き出すようにすると、小さく「どうぞ」と言った。
 自分から抱き着くような事はせず、主導権をオレに握らせてくれるという事らしい。そういう気遣いが恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
 オレは壁に寄り掛かった上半身を起こすと、腕を伸ばしてミカの腋の下へと滑り込ませる。そのまま手を後ろに回すと、少し力を込めてミカの身体を抱き寄せた。
 左手は、ちょうど肩甲骨の辺りから生えている羽根の下を通るように、右手はその上を通って、ミカの後頭部を包み込むようにして抱きしめる。ミカも同じようにオレの後ろに手を回して、お互い優しく抱きしめあう形になる。
 トクントクンとお互いの心臓の鼓動がシンクロして、まるで一つの心臓を共有しているかのように、リズムの乱れは感じられない。
 暖かな体温とそよ風のような優しい呼吸、そしてミカの柔らかな身体の丸みを全身で感じ取りながら、そのまま固まったみたいに抱きあっていた。
「ミカが人間だったら良かったのにな……」
 オレがぽつりと漏らした言葉に、クスクスと笑いながらミカが答える。
「何言ってるんですか。私が天使だったから、こうやって出会えたんですよ。もし私が人間だったら、孝治さんとは何の接点もないじゃないですか」
「そりゃそうだ」
 あまりにも当り前な事に二人して小さく笑っていたが、やがてお互い堪え切れずに「ワッハッハ」と大声で笑い出した。
「ありがとう、ミカ。もういいよ。満足できた」
 そう言って腕の力を抜くと、ミカはオレに回した腕を解いて、オレが作った腕の輪からするりと抜け出した。そして身体を横に外すと、とびきりの笑顔を浮かべながら聞いてくる。
「じゃあ、私からも最後にお願いがあるんですけど、聞いてもらえますか?」
「うん。何でも言ってくれよ」
 言葉を促すように答えると、ミカは恥ずかしそうにしながら口を開く。
「孝治さんが誘導装置を拾ったところに、連れていってもらえますか? 報告書に到着したところから書かないといけないので、知っておかなきゃまずいんですよね」
 そう言うと、ペロッと舌を出した。
 ミカと出会って以来、あの公園には行っていなかった。いつもオレにくっついて、オレから離れる訳にはいかなかったミカは、それが問題になるとわかっていても口にする事はできなかったのだろう。最後の最後でダメモトで聞いてみたようだった。
「OK。じゃあ、今から行こう」
 外に出るとそれだけ事故に遭う確率は高くなるが、そんな事はもうどうでも良かった。ミカのおかげで覚悟はできているし、ミカに出会えた事を感謝するためにも、ミカの最後のお願いを聞いてあげたかった。
 立ち上がってロフトを下りると、服を外出用のものに着替える。いつものように左手首に腕時計を巻き付けると、アラームを午後四時にセットした。残りはあと一時間あまり。
「よし。出掛けようか!」
「ハイッ!」
 元気良く返事をすると、いつものようにオレの後ろについて来る。
 二人一緒に玄関から外の通路に出ると、ドアを閉めてカギを掛けた。
 ――そして、もう二度と戻る事のないであろう部屋を後にした。


 駅から程近い、住宅街の中にある寂れた児童公園。
 夕方近いというのに、子供達の姿はそこにはなかった。少子高齢化で子供が少ないというのがあるだろうし、いたとしても塾通いで忙しいから、こんなところで遊んでいる暇はないのだろう。
 その人っ子一人いない敷地の端の方にある、薄汚れた白い木製のベンチ。
 そこであの誘導装置を拾ったのだった。
 オレは一直線にベンチの方へと歩むと腰を降ろし、その隣にミカを座らせた。
「ふうん……ここが降下予定地点だったんですか。昼間なのに人の姿がなくて、何だか淋しい感じがしますね。でも私達には好都合ですけど」
 ミカは珍しそうにキョロキョロと周りを見渡した後、オレの方を向きながら笑顔で言った。
「ちょうどここに座っていた時、上からあの丸いのが落ちてきて、オレの頭にぶつかってからその辺りに転がったんだよ」
 足下から約一メートル先を指差しながら言うと、ミカはベンチから立ち上がり、オレの指したポイントに立って空を見上げた。
 つられてオレも見上げる。だが視線の先には、あの日と同じように青空があるだけで、そこには何も見えなかった。しかしミカには何か見えるのかもしれない。
「ねえ、孝治さん」
 唐突にミカがオレの名前を呼んだ。
「ん?」
「誘導装置が孝治さんに当ったのって、偶然にしては凄いと思いませんか?」
 まあ、確かに。小さな隕石が直接当る確率が数百万分の一ぐらいで、毎日どこかにボコボコ落ちてるはずだから。対して、天使の使う道具はそれよりもはるかに少ないはずで、それに直接当るという事は、数億分の一以下の確率だろう。
「私がこうして孝治さんの担当になったのって、何か運命的なものを感じるんです。もしかして気のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない……。でも、運命で決まっていた。そう信じていたいです」
 くるっと身体を回転させると、オレに向かってニコッと微笑みかける。フワリと舞い上がったワンピースの裾とペチコートが、少し遅れてミカの身体に巻き付くと、ゆっくりと元の位置に戻っていった。
 こんなに可愛らしい仕種をみせるミカとも、もうすぐお別れしなければならない。天界に昇るまでがミカの仕事だし、そこから先は天界の別の天使が担当になるという話だった。
 オレの中に少し淋しいという感情が生まれ始めた。
「孝治さん。ここでちょっとだけ遊んでいきましょうか?」
 オレの沈みそうな気持ちを察したのか、ミカは真夏の太陽みたいな笑顔で明るく言うと、オレの腕を捕ってベンチから引っぱり上げる。
「そうだな。ちょっとだけ遊んでいくか」
 答えるやいなや、ミカはオレの手を握ったまま遊具の方へと駆け出していく。
 あどけない笑顔を浮かべながら走るミカは、そこいらにいる少女と何ら変わりはなかった。
 人気のない寂しさばかりを感じる公園が、ミカの言った通りオレ達には好都合だった。他人の目を気にする事なく、思う存分身体を動かす事ができたし、ミカにとっては文字通り、久しぶりに羽根を伸ばす事ができたからだ。
 シーソーやブランコ、ジャングルジムや回転遊具など、次々と場所を変えながら声を上げてはしゃぐミカ。
 息を切らしながら、体力が無尽蔵かと思えるほど動き回るミカについていく。
 オレも小学生に戻ったみたいに、思いきりはしゃぎながら遊ぶ。
 二人とも笑顔が途切れる事はなかった。
「そろそろ戻りましょうか?」
 ようやくミカが満足してそう言ったのは、予定の十分前の事だった。
「よし、いくか!」
 そして二人並んで公園を後にした。
 帰り道はついいつもの癖で、通学路だった駅前の商店街の方を通っていく。
 本当は公園から裏道を抜けていけば、アパートには近いのだが、ここを通るのも最後だから、そのまま通り抜けていく事にする。
 夕方になろうとする今の時間、商店街は近所の奥さん連中の、夕飯の材料の買い出しでごった返していた。
 ちょうど商店街の中間の位置にある、八百屋の前に差し掛かったところで、そこの主人が声を掛けてくる。
「よおっ、柴田君。今日は買ってかないのかい? いい大根入ってるよ!」
 生活費が苦しくなると、どうしても野菜料理ばかりになってしまう。その場合いつもここで買っているので、すでに顔馴染みになっているのだ。それ以外の理由でも顔馴染みなんだけど。
「すみません。今日は料理はしないんですよ。ちょっと通り掛かっただけなので」
「何だい、外食かい? 駄目だよ、若い人が外食ばかりしてちゃ。ちゃんと栄養のバランスを考えなきゃ、な!」
 残念そうにつぶやくと、少々お説教じみた事を言う。ちょっとお節介なところはあるが、世話好きで気っ風がいいから商店街でも人気者なんだ。
「駄目だよ、お父さん。お説教ばっかしてちゃ、お客さん来なくなっちゃうよ」
 奥の住居からこの店の看板娘の知佳ちゃんが出て来て、父親に釘をさした。まだ小学三年生なのに、随分としっかりした娘だ。
 スニーカーと踵の間に指を入れてフィット感を調節した後、つま先でチョンチョンと地面をける仕種をしながら、オレに向かって満面の笑顔を見せる。
「お兄ちゃん、こんにちは!」
 いつものように気軽に挨拶すると、嬉しそうに小走りで近寄って来た。
 知佳ちゃんがこんなに親し気に話し掛けるのには、訳がある。
 もうすぐ夏休みが終わろうという頃、客として来ていたオレを捕まえて、宿題を教えて欲しいと頼まれたのだ。
 休み中で学生はほとんどが帰省していた時に、唯一客として来た学生がオレだったそうで、ギリギリまで宿題が片付かなかった知佳ちゃんに代わって、両親に懇願された。親というのは、最終的には子供に甘くなるものらしい。
 その時ちょうど暇だったオレは、いつもお世話になっているお礼も兼ねて、二つ返事で了承した。その時の教え方が良かったからか、知佳ちゃんの算数の成績が上がったらしく、それ以来、時々勉強を教えて欲しいと頼まれた。
 知佳ちゃんはオレが買い物に寄った時に、授業でわからない事があると、教科書とノートを持って店に出て来るという事を繰り返した。最初は遠慮がちだった知佳ちゃんも、慣れるにつれて徐々に親しく話をするようになって、今では家に上がって教えるまでになっている。
 オレには田舎に同じくらいの従妹がいるから、子供の扱いには慣れているし、逆に歳の離れた妹ができたみたいで、楽しく感じさえした。
 それに、無報酬で引き受けたおかげで、野菜を安く譲ってもらえるようにもなったし。
「こんにちは、知佳ちゃん。今からお出かけかい?」
 手にはバッグを提げて、寒くないようにジャンパーを着込んでいるから、たぶんそうだろうと思って聞いてみる。
「うん、これから塾なの。八時過ぎまでみっちりやるんだよぉ。お兄ちゃんに教われば済むから、本当は行きたくないんだけどね」
 最近まで塾には行ってなかったはずなのに。娘の能力を再認識した両親が、慌てて入れさせたのだろう。知佳ちゃんは少々大袈裟に肩を落としながら、ぼやくように答えた。
「何言ってやがる。今のうちから塾で勉強しとかないと、お兄ちゃんみたいにいい大学に入れないぞ。そうですよねぇ」
 父親が娘の言葉をひったくってお小言を言った後、オレに同意を求めてくる。
「人それぞれですから、一概には何とも」
 そうとしか返答のしようがなかったので、嘘偽りない本音を答えておいた。
 オレの場合、小さい頃からエンジニア志望だったので、とりあえず学校の勉強だけはしっかりとやっていた。そのため塾に行かなくてもそこそこの成績が取れたので、今の大学に合格できたのだ。
「ほら、みなよ!」
 知佳ちゃんは自分の意見に同調する援軍が現れたと思って、これが千載一遇のチャンスとばかりに、父親に向かって冷ややかな視線を送る。
「ごちゃごちゃ言ってないで、いいからさっさと行け。遅れるぞ!」
 その視線を無視するようにコツンと娘の頭を叩いた後、促すように背中を押し出す。よくある親と子の交流を、オレは微笑ましそうに眺めていた。
「しょうがないなぁ、行って来るよ。お兄ちゃん、じゃあね!」
「行ってらっしゃい」
 知佳ちゃんは笑顔で手を振ると、元気良く表に飛び出した。
 その時、人込みの中から「きゃあ!」という悲鳴が次々と沸き上がった。そこにいる全ての人の視線が、そちらの方へと集中する。
 買い物客の邪魔にならないように、道の真ん中に出た知佳ちゃんも、声のした方を振り返った。
 道の真ん中に溢れていた人が、まるで十戒の海のように左右に別れていく。その中からスクーターに乗ったノーヘルの男が、何やら大声で喚きながら突っ込んで来た。
「た、頼む! 退いてくれ!」
 どうやらスクーターが暴走して、制御できないらしい。
 全速力で走るスクーターを、通行人に引っ掛けないようにギリギリでかわしながら、こちらの方へと向かって来る。
「知佳ちゃん、危ない! よけて!」
 大声で呼び掛けてみるが、知佳ちゃんは道の真ん中で立ちすくんだままだった。顔面はすでに蒼白で、恐怖のあまり身体がいう事をきかないらしい。
「……お、お兄ちゃん!」
 横目でこちらを見て、声を上げるだけで精一杯だった。
 その声を聞いた瞬間、オレは無我夢中で道路に飛び出していた。頭の中には何もない。ただ知佳ちゃんを助けたい一心で、身体がひとりでに動いていた。
 知佳ちゃんの腕を掴むと思いきり引き寄せて、知佳ちゃんを庇うように包み込む姿勢を取ると、スクーターの方に背中を向ける。ちょうど避けようとしたスクーターが、運悪くこちらの方に軸線を向けたところだった。
「孝治さん! 危ない!」
「うわぁーっ!」
 ミカの警告とライダーの悲痛な叫び声が聞こえたのと同時に、背中から下半身にかけて、鋭い衝撃と鈍い痛みが襲ってくる。
 衝突した衝撃で身体を飛ばされたオレは、最後のあがきで知佳ちゃんを護ろうとして身体を捻った。そのため肩と背中から滑るように地面に着地し、最後に頭を打ち付けた。
「……ぐはっ!」
 地面と知佳ちゃんの身体にサンドイッチされて、肺の中の空気がくぐもった声と一緒に、一気に放出される。
 視界の端に盛大に転がるスクーターと、同じように宙に飛ばされた男の姿がぼんやりと入ってきた。
「知佳ぁーっ! 大丈夫か、知佳! おい、救急車! 救急車だ!」
 慌てて駆け寄って来た父親が、心配そうに見つめている。その隣で手出しが一切できないミカが、真っ青な顔で涙を浮かべながらしゃがみこんでいた。
「孝治さん! しっかりして下さい! そんな……こんな唐突な幕切れを望んだ訳じゃないのに!」
 しっかりするのはミカ、お前の方だよ。お前の仕事はオレを天界に連れていく事だろう? だったら涙なんか流してる場合じゃないだろうが……。
 朦朧とする意識の中で、オレはそんな事を考えていた。
 視界が徐々に霞んでいき意識が消えかかった時、後頭部に妙な暖かさを感じた。どうやら出血しているらしい。
 すでに身体を動かす事もできず、後は運命にこの身を任せるだけと覚悟した瞬間、消えゆく意識の中で腕時計のアラームを聞いた。
 そうか……時間か……。
 これでオレは煩わしい思いから解放されるのか――。
 そこで意識が途絶えた……。


(4)

 次にオレが見たもの、それは、真っ白な天井とルカの顔。そして涼子さんの顔だった。
「うっ……ん……」
「柴田君! 気がついたの? 良かったぁ、心配したんだから!」
 目に涙をいっぱい溜めて、安堵の表情を浮かべながら抱き着いてくる。
「ちょ……ちょっと涼子さん。いたっ、痛いから放して」
 ちょうど涼子さんの手がオレの後頭部に触れていたため、そこからズキズキと痛みが襲ってきたのだ。痛みを感じるって事は、どうやらオレは生きているらしい。
「ご、ごめんなさい。痛かった?」
 慌てて離れると、泣き笑いの表情をしながら謝る。そして胸元に掛かっている布団を丁寧に直してくれた。
 オレはベッドに寝かされていた。鼻に感じる消毒と薬液が入り交じった、特徴ある独特の匂い。――ここは病院らしかった。
「あの……オレ、生きてるの?」
「うん。お医者様が言うには、奇跡的だったんですって。女の子を助けるために身体を丸めてたんだって? そのおかげで直接頭を打たなかったから、軽傷で済んだんだって」
 怪我の程度はどのくらいなのか尋ねると、打撲と頭を五針縫う裂傷だけだったらしい。
「それで、彼女は……知佳ちゃんは?」
「かすり傷だけでピンピンしてるわよ。昨日のうちに検査が終わって、とっくに退院したわ。さっきまでお母さんとお見舞いに来てらしたけど、柴田君がなかなか起きないから、仕事があるからって仰って帰られたわ」
 そう言って涼子さんは、ベッドの横にあるワゴンを指差した。その上にはいかにも八百屋さんらしい、山盛りのフルーツの籠が置いてあった。
 しかし涼子さんは、知佳ちゃんが昨日退院したと言っていた。時計がないので日の光で判断すると、明るい事は明るいのだが、少し赤みが混じっている。つまり今は翌日の夕方で、オレは丸一日眠っていたという事か。
「心配したのよ。治療が終わっても、柴田君、目を覚まさないし。脳波やCTじゃ異常がなくて、血液検査の数値が極度の疲労を示していたから、疲れて眠ってるだけでしょうって、お医者様はあっけらかんと言うし」
 またまた、涼子さんの目に涙が溢れてきた。相当心配掛けたんだろうな。
 実際ここ最近は寝不足気味だったから、これ幸いと身体が眠りこけていたんだろう。
「心配掛けて、ゴメン」
「いいわよ。大した事なかったんだから」
 目尻に溜まった涙を指先でぬぐい取りながら、笑顔を浮かべてそう言った。
「それよりもびっくりしたわ。柴田君から変なメールが届くし、その後に村田さんから『柴田君が事故に遭った』って連絡が来るし。おかげであの中身を信用するしかないじゃないの」
 涼子さんはそう言いながら、頬を桜色に染めて俯いてしまった。白く滑らかな肌に浮ぶ桜色は、つややかで艶かしい感じがした。
 いや、ちょっと待て……。そうだ、すっかり忘れていたが、スクリプト制御で涼子さんにメールを送ったんだった。
 慌てて内容を思い出すと、恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になる。血流が急激に頭部に集中し始めたためか、先程よりも傷口の痛みがどんどん増してきた。
 オレは顔の火照りを何とか落ち着けようと、違う話題をわざと振ってみる。
「……そ、そういえば、村田先輩は?」
「どうしてそんな事聞くの?」
 不思議そうな顔をして、涼子さんが聞き返してくる。
「いや、だって涼子さんがオレと会う時は、大抵先輩が一緒だったから……」
「わたしだって、一人で来る事くらいあります。村田さん、昨日は来ていたけれど、今日は山本教授に捕まっていたわ。学期末だから資料整理に人手が必要だって」
 実状を知ってるだけに、少々呆れたような口調で答える涼子さん。
 几帳面な山本教授名物の、資料整理に名を借りた教授室の大掃除か。毎年前期と後期の二回、必ず行なわれるから学部内では有名なんだ。学期末には山本教授に近付くな――と。先輩ってよくよくつまらない事で、頻繁に他人に捕まる人だな。
 クスクスと声を漏らしながらオレが笑っていると、それに気を良くしたのか、涼子さんは続けて口を開く。
「とにかく、わたしはあのメールを100パーセント信じる事にしたから。……だから、わたしは返事をしなくちゃ駄目だよね」
 そう言うと再び俯いてしまう。そしてしばらく経ってからゆっくりと話し始めた。
「――あのね、わたしがサークルに入ったのは、柴田君がいたからなんだよ……。そ、それだけ。わたし飲み物買って来るわね!」
 言い終わるのと同時に、慌てて部屋を抜け出していく。サラサラとなびく、光沢の美しい黒髪の隙間から見えた涼子さんの耳は、ゆでダコのように真っ赤になっていた。
 という事は……涼子さんも、オレの事を……。
「ヤッ……」
 万歳して思わず叫びそうになったところで、ここが病院だという事を思い出し、慌てて口を押さえる。そして今度は心の中で思う存分、喜びを爆発させた。
 思わずニヤニヤと顔を綻ばせていると、それを咎めるような冷ややかな視線が突き刺さっているのに気付いた。その視線の主はルカだった。
「あれ、君はついていかなくていいの?」
「あんたに話があってね……あんた、余計な事をしてくれたよ。あんたはそれでいいかもしれないけど、ボクがこれから大変なんだからね!」
 不満そうに頬を膨らませながら、少々大袈裟に悪態をついてみせる。
 しかし、ルカの喋る日本語は初めて聞いたけど、ミカよりも一段高い柔らかなソプラノの声に、ボーイッシュな髪型と、加えて自分の事を「ボク」と呼ぶその言葉遣い。見たまんまのキャラクターだなと思って、オレは思わずクスッと笑いを漏らしていた。
「笑い事じゃないんだよ!」
「ゴ、ゴメン。悪かった」
「おかげで正体がばれちゃったし。あんたは知らないだろうけど、あの人、こーんなに大きなクマのぬいぐるみを持ってて……」
 そう言いながら両手で大きな円を描いてみせる。その大きさはちょうどルカと同じくらいだった。
「それを毎日着替えさせて、抱き枕みたいにして眠るんだから。『一人っ子で寂しかったけれど、これからはルカちゃんがいるから嬉しいわ』なんて言って、ボクをクマの代わりにするつもりなんだよ。そんな事をするためにボクがいる訳じゃないのに」
 ルカの口から涼子さんの趣味についての告発を聞いて、オレは堪え切れずに声を上げて笑い出していた。
「ククク……ッ、ワッハッハッハッハ……」
 天使の抱き枕か。そいつは涼子さんにピッタリだ。
 ――そうか、その趣味の事があったからイマイチ波長が合わずに、涼子さんには姿が見えなかったんだ。でも正体がばれたって言ってたから、今は見えているのだろう。オレのメールが役に立った訳だ。
「だから笑い事じゃないって!」
「スマン、スマン! だけど、契約者の望み通りにさせるのが、擁護課の天使の仕事でもあるんだろ? だったらそうするより他にないじゃない」
「あんたに言われたくないよ!」
 一段と頬を大きく膨らませながら、プイッと横を向いてしまう。
 ミカと違って少し気が強そうだが、なかなか可愛いやつだ。これなら涼子さんとも上手くやっていけるだろう。
 ……そういえば、さっきからミカの姿が見えないな。いったいどうしたんだろう。
「なあ、ミカはどうしたんだ?」
 事情を知っているだろうから、ルカにミカの事を聞いてみた。オレと話をするために、ここに残ってくれたのはラッキーだった。
「それ、見てみなよ」
 ルカが指差したのは、ベッドの横にある椅子の上に置かれた今日の朝刊だった。たぶん涼子さんが買って来てくれたものだろう。
 パラパラと捲っていくと、事件記事のところに昨日の事故の事が小さく載っていた。
『商店街でバイク事故。一人死亡、二人軽傷』
 見出しに続いて記事の中身を読んでいくと……。
「えぇーっ! こ、これって……」
「そうだよ。ミカの大ボケ、早とちりは相変わらずだなぁって、結構呆れちゃったよ。亡くなったバイクの運転手が、本来のミカの仕事相手。名前は新発田孝次さん。あんたとは字が違うだけで、読み方は一緒だよ」
 つまり、本当ならミカはこの人のところに行くはずだったのに、生来の早とちりの性格のせいで、間違えて同じ名前のオレのところにいたっていう訳なんだ。
 という事は、今頃ミカは……。
「本来の回収の仕事を終えて、たぶん今頃は、天界で上司から大目玉喰らってる頃だろうよ」
 そう言いながら、ルカは西欧人みたいに両手を広げると、大袈裟に肩を竦めてみせた。
 ――そうか、もう天界に帰っちゃったんだ。
 あの愛らしい笑顔を二度と見る事ができないと思ったら、何だか寂しくなってきた。
 ありがとう、ミカ。こうやって笑えたり、涼子さんとお互いの気持ちを確かめあえたのは、お前がいたからだよ。本当に、ありがとう……。
 オレは天井を見つめたまま、今はここにいない優しい天使に向かって、心の中でありったけの感謝を込めてお礼を言った。

              *      *      *

 ――あれから二週間後。
 オレは部屋の中でワークステーションに向かっている。オレが経験した特異な日々を、日記にして残しておくためだ。
 傷はまだ完全に癒えてはいないが、キーボードを打つくらいなら痛みは出なくなったし、頭の方ももうすぐ抜糸できるとの事だった。
 退院後、買い物に出かけては知佳ちゃんに見つかる度に、「お兄ちゃんは命の恩人だから、お礼に私が結婚してあげるの!」と、熱烈なプロポーズを受け続けている。
 最初は微笑ましく見ていた知佳ちゃんの両親は、娘に感化されたのか段々とその気になってきたようで、最近は顔を見るなりその話ばかりなので買い物に行き辛くなってきた。そのうち涼子さんと一緒に行って、ちゃんとお断りしないといけないだろう。
 その涼子さんはあの日以来、何かと世話を焼いてくれて、頻繁にこの部屋に来るようになった。まだ他の人には二人の事は秘密だから、この先もし関係がばれたら、涼子さん非公認ファンクラブに吊るし上げられるのは間違いないだろう。
 それでも、涼子さんと一緒にいる事で幸せを感じられるから、そのくらいは我慢できる。いや、逆にお釣が返ってくるくらいだ。
 当然といえば当然だが、涼子さんと一緒にルカも頻繁にやって来る。
 オレはその度に、涼子さんの趣味についての愚痴を聞かされる事になった。何でも最近は、小さくなって、着れなくなってしまった昔の服を引っ張り出してきては、毎日とっかえひっかえルカに着せているんだそうだ。
 シンプルでボーイッシュな服装が好みで、可愛い天使の制服も渋々着ているルカにとって、これは耐えられない事らしい。だって、涼子さんは女の子っぽい、可愛らしい服が昔から好きだったから。
 毎日ベッドの上で、レースやフリルのいっぱい付いた洋服を間に挟んで、喧嘩の一歩手前まで言い合いしているらしい。
 それどころかオレの部屋に来る度に、オレを間に挟んで、「あれ着て?」「やだ!」と口論を始めるもんだから、二人がいる間はオレの冷や汗が出っぱなしだった。
 でも結局はルカの方が折れて、いつも為すがままにされるのを、じっと耐えなければならないのだった。最後は諦めて言う通りにするのに、いつも口論するのはどうしてかとルカに聞いてみたら。
「いつも文句を言ってたら、そのうち向こうが諦める事だってあるでしょ? それも作戦のひとつだよ」
 と、涼しい顔で言ってのけた。
 そのルカから今回の顛末について、補足情報がもたらされた。
 それによると、今回の事故の直後に、オレには擁護課の天使がつく予定になっていたようだ。身を呈して知佳ちゃんの命を助けた事と、天使の波長にピッタリ合う事が評価に値するらしい。
 ルカの話によれば、その件に関して天界では、前代未聞の大騒ぎになったそうだ。
 なぜなら、人間一人に対して、天使は一人しかつくことができないと決まっているそうで、それなのにオレはミカと……。
「孝治さぁん、何してるんですかぁ? 早くプリン食べちゃいましょうよ! もうすぐ涼子さん達が来るんですから」
「ああ、わかった! ちょっと待ってて」
 呼び止められたオレは書きかけの書類をセーブすると、テーブルの前でお預けを喰らった犬のように、恨めしそうにプリンを眺めるミカの元に向かう。
「は・や・く、は・や・く♪ 涼子さんが服を選んでくれるなんて、嬉しいなっ!」
 今日は四人で服を買いに出かけるのだ。いつまでも同じ部屋着というのも可哀相だし、それに女の子の服なんてオレにわかるはずもないから、涼子さんに選んでもらうのだ。ましてや女物の下着なんて、オレには……。
 涼子さんが選ぶ事に、ルカの姿を見ていたミカは大喜びしたが、ルカは猛烈に反対した。いつもの様子でルカが反対するのは、ある程度予想はついていたのだが、あまりの拒否反応にとうとう涼子さんは諦めてしまった。
 お古でさえ精一杯我慢しているのに、新品が増えるとなるとこれ以上は限界らしい。しょうがないからルカには、オレがユニセックス物を選ぶ事で納得してもらったのだ。
「いっただっきまーす!」
 オレがテーブルに着くやいなや、ミカはビニールの蓋を開け、これ以上ないといった幸せそうな顔でプリンを頬張った。
 ――結局、オレがミカと交わした契約は生涯有効で、ミカ以外の天使をつける事ができないそうだ。だからミカはオレの許で生活を共にしながら、一級天使資格試験の合格を目指す事になった。
 合格さえしてしまえば、回収課から擁護課への異動は比較的簡単にできるらしい。それだけ試験が難しいって事らしいが……。
 なんせ擁護課はエリート天使が集まる部署らしいから、はたしてミカに勤まるのか。いや、それ以前に試験に受かるのか?
 とにかく、それで晴れて擁護課の天使として、オレと一緒に暮らす事ができるのだ。
「うーん、美味しい……幸せだなぁ♪」
 とろけそうな笑顔を見せる、早とちりが得意な天使、ミカ。
 この天使は家にいるのだ。これからも、ずっと……。


 天使が家にやってきた(前・後編) ― 完 ―


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